「おかあさん」のまねごと
ご訪問ありがとうございます♪
みつゑです。
今日も昔話を
それは「助けて」を言うことを知らなかったときのこと、、、
私の20代は一言で表すと「子育て」かもしれません。
えーっと、、、
じぶんの子どもではなく、長姉の忘れ形見の甥を育てるサポートをしておりました。
私がオバさんになったのは、ハタチのとき。
長姉は膠原病という難病となり、発病5年を過ぎたころ出産しました。
一度入院となると半年は覚悟。
危ないと呼び出されることも度々。
そんな入退院を繰り返すこと10年あまり
37歳という若さで他界しました。
当時、甥は6歳。
小学校に入学する直前のことでした。
長姉の夫、義兄はフリーの仕事をし地方に行くことも多く、妻子は我が家にお任せ。
我が家では好き勝手に振る舞う傍若無人ぶり。
今思うと、ふざけんな!!ですけど、、 、
その頃、私の父親はすでに他界。
次姉は嫁いでいるしで、家に残っていたじぶんが、甥の世話をすることに疑いを持つことはありませんでした。
我が家にいっしょに住んでいる時期も長く、保育園、幼稚園の送り迎えなどなど。
運動会を長姉の代わりに参加したり。
これは長姉としてはツラいことだったかな。
じぶんの子どもを妹とは言え、他人に委ねなければいけないのだから、、
そんな苛立ちをヒシヒシと感じた私は、姉のプライドを傷つけないようにとの気を使う日々…
甥たちが住んでいたのは都内。
母親が我が家と甥の家を行ったり来たり、母親の留守を守る私。
夏休みはもちろん週末なども我が家で過ごす。
こんな日々が小学校卒業まで、、
行ったり来たりの振り回される生活で甥っ子もしんどかったと思います。
母親をサポートするいいムスメ。
甥にとって母親代わりのやさしいオバさん。
だって、それがあたりまえだと思っていたから・・・
社会に馴染みきれないと感じていた私は、仕事も深く考えず家のこと最優先でパートに甘んじておりました。
大好きなライブにも行きたいし←ここ大事(笑)
全てじぶんで決めたこと。
そう思いながらも、自由そうな友人たちをうらやましく眺め、この状況から抜け出せる日が来ることを望み、誰かが助けてくれるのを待っていました。
でもね、誰も助けてくれるわけないのです。
だって、そのときの私は、助けて!と手をのばさなければいけないことを知らなかったから。
助けてと言えば、いつでも手を差し伸べてくれるもう一人のお姉ちゃんがいたのに、、
じぶんはどうしたらいいのかな、、?
もがき、ときには涙を流して、それでも「ライブ」というワクワクだけは忘れない。
そんな20代。
助けてを言えば、差し伸べられる手は必ずある。
だから、きっと大丈夫♪
そんなふうに思える今の私なのでした(^ ^)